浮間のむかし
 旧松澤家住宅がかつて所在した北区浮間は、江戸時代には武蔵国足立郡平柳領浮間村と言いました。
浮間村は、一貫して江戸幕府の直轄地でした。この村の歴史を知る手がかりは、黒田家文書に求めることができます。
黒田家文書には、享和4年(1804)2月に作られた『明細書上之事』という古文書が含まれています。
これは、いわゆる村明細帳と呼ばれる類の村の公的文書で、幕府代官(竹垣三右衛門直温)に提出されたものの写しだろうと考えられています。
ここには、およそ200年前の浮間の状況が詳しく書かれています。
いまここでその内容を確認してみると、19世紀初頭頃の浮間村は、家数55軒(百姓52軒、地借1軒、寺1軒、修験1軒)から成り、そこに271人(男135人、女133人、出家1人、修験1人、道心1人)と馬5疋が暮らしていました。
そして、百姓の多くは、畑で五穀や芥子を栽培したり、縄や筵、木綿糸を作るなどして生計を立てていたのです。

ところで、浮間は荒川に直接する地域です。
そのため、しばしば洪水の被害に遭いました。土盛りをして屋敷地を高くする水塚(ミヅカ)という独特の施設があるのも、そうした脅威にさらされやすかったからです。
そうした土地柄からでしょうか、浮間村は水田耕作には不向きだったようで、田地がほとんどなかったようです。
これについて、『明細書上之事』は、「皆畑の村にて田は一切ございません」と確かに報告しています。
ただし、田がないというのは、文字どおりに理解すべきことではありません。
なぜなら、黒田家文書に含まれる別の古文書には、荒川沿岸に流作場(ナガレサクバあるいはリュウサクバと読みます)を設け、若干の田地を開いていたことが窺われるからです。
つまり、田がないというのは、この場合、検地を受けて年貢を上納すべきことの義務づけられた田地がないということを意味すると考えたほうがよいと思われます。
ともあれ、流作場は、河川水位が増せば押し流されてしまうような貧弱な地所です。
したがって、こうした不安定な地所に開いた田地を経営の主軸とするわけにはいかなかったでしょう。

それでは、こうした浮間村の主産業は、一体どのようなものだったのでしょうか。
実は、このあたりの事情を探るうえでも『明細書上之事』が大変役に立ちます。
この史料は、延享元年(1744)に行われた検地の結果、浮間村の反高(註)が72町7反2畝21歩と把握されたことを記録しています。
そして、その内訳として萱畑が56町8反8畝9歩(約78.2)%を占めるとあります。浮間村の反高の大部分は萱野だったわけです。
いまここで、萱とはチガヤやススキといった多年草の総称で、その群落が萱野です。
萱は、かつては屋根葺きの材料として需要が高く、ことに火災が多発した江戸では商品価値が高かったといわれています。
浮間村は、荒川に直接する村として頻繁に洪水の被害に見舞われましたが、その一方で屈曲・蛇行を繰り返す荒川の堤外地に発達した寄洲や中洲のおかげで萱に恵まれたのです。
浮間村に暮らした人びとは、萱を刈り取っては荒川の水運を利用して江戸まで運び、そこで利潤を得ていたのです。
なお、明治14年(1881)に作られた「萱相場記」という史料によれば、金1円につき萱40束・蓑萱35束ほどの相場だったようです。

さて、このホームページで紹介する松澤家住宅は、かつてはこうした暮らしのある場所に建てられていました。
松澤家住宅を訪れて、かつての人びとの生活がどんなだったかを思い浮かべていただければ、私たちがどのような歴史の中にあるのかをも想像することができます。

ぜひ一度、わたくしたちの故郷へお越しください。



(註)反高…江戸幕府は、様々な理由から収穫が不安定で高入れすることの困難な土地を、反別のみ把握して課税しました。
こうした土地の総面積を反高と呼びます。